清水さんが書いている「長文日記」というタイトルのブログがあった。
あったというのは、2日前くらいになくなったからである。
大好きで、よくよく見ていたブログなので残念である。
最後まで面白く「やめるタイミングを見計らっていた」「20年やっているけど、続けているのは、ほぼいない」「言語化できないことを大切にしたい」と、私にとってとても心に残る、たくさんの話が書かれていた。
ブログを書きたい欲というものが、私にもかつてはあって、毎日投稿していたこともあった。このブログがまさにその跡地であり、たまに思い出したように更新する。
しかし、その投稿は稀な出来事であり、続くことはなく、書きたい欲というものは、すでに死滅していて、書くべきタイミングで書いているのだ。
欲がない満たされた状態は、Twitterが楽しいと言うのが8割その理由を締めていて、Twitterをするだけで、満足しちゃうようだ。わざわざパソコンに向かい長文を、ばばばっと、打ち続けるだけの気力がわかないのである。
長文を書かなくなりしばらく時がすぎると、その書き方が全然わからなくなり、なにか言いたいことが在るのに、文章がまとまらず、イライラしてしまう。スッキリしたいがために書くはずなのに、これでは本末転倒なので、書くのを中断して、Twitterで短文を投稿しちゃうのだ。
18歳だった私は、誰から見られることも少なく、そもそもが学生であったので、それはもう適当でよかった。しかし今は、先生を生業の一つとして生きている28歳である。適当に生きているといっても、世界に晒す文章はそれなりの格好というものが在るのではないかと、体裁を気にするようになってしまった気もしている。
いま年齢を書いていて思ったのだが、このブログはもしかしたら10年が経つのだろうか。そういえば早坂がPEPESO結成10周年の何かをやると言っていた気がする。まぁ、なにかやるのだろう。
PEPESOも気づけば10年。ただ私の家に友達が集まり、適当に遊んでいただけのグループ名も気づけば、いろいろな意味が付加されて、つながりもたくさんできた。大きな概念になったものである。気分はすでに事業売却して関係がなくなった創業者の気分である。たくさんの方がPEPESOを慕ってくれているおかげで、ペへそはただのサークルではなく、なんかよくわからない面白いなんか、という意味になっているとおもう。
あの、6畳くらいの空間で大学生が5人集まってだべっていた気軽さから生まれたものは、私にとって大きいと思っている。
そしてすべてが大きなものになっただけでなく、あのとき狭い部屋にたくさんの漫画を並べて「大橋ミニマンガ図書棚」は、「図書室」とレベルアップして、2000冊以上の蔵書を誇る大層なものになっている。当時漫画を一緒に買い漁っていた西尾と三宅、それに私の嫁と私を加えた4人によって、現在も月に100冊ほどの本が、図書室に収められ続けている。
昔は楽しかった。そして今はもっと楽しい。人生を楽しむ力は、果なく上昇している最中だ。終わらせるものがあれば、続けるものもあり、終わらせたとしても、また始めれば良い。好きにすればいいだ。人生の主人公は自分で、その物語を書いているのも自分なのだ。やりたいことをやれば良くて、そのために頑張れば良い。そして、それを実行する力をつけて生きていく。
去年の自分より、今の自分は強いと言えるかどうか。
何度目になるかわからない、決まり文句のような気がしている言葉だが、私が先生業をしていく上で、この言い回しが、きっと大橋先生の売りの一つだから。きっと生徒のほうが私より優秀で「大橋先生はザコ」ってすぐに言えると思うし、それが最大の望みなのだけれど、大橋は先に生まれていて、まぁそれなりに生きているので、そのすぐがすぐより遠い未来になるように、生きていけたらと思ってます。