「ちきりんは何故これほどまで必死なのか」を読んでみて思ったこと。
どうにも寝たくない気分で、ただひたすらインプットに明け暮れるのも飽きてきたので、吐き出してみます。
最近考えていたことに近い内容でした。似たようなことを考えている人が多いんだなと感じ、その後「最近考えていたからこそ、目に止まりやすくなったんかな」ってところまで考えました。
僕の文脈では、この話は「トラウマの克服」ってタグ付けられています。
頭の良いちきりんは世間の価値観に迎合できなくて孤独だった。故に不幸せだった。
と作中に記述がありましたが、この”故に”を許すための行いを「トラウマの克服」と私は呼称しています。
不幸せだった。と書かれているように、ちきりんさんは今は幸せだと思います。
現在は幸せである故に、幸せに成れた経験を活かし、不幸せを感じている人に手を差し伸べているのだと思います。
自らが不幸せだったという事実を許すために、同じようなことで悩み、苦しみ不幸せを感じている人を救う。
さらにいうと、自分が不幸せを感じていた構造そのものを変質させることで、二度と自分と同じ境遇の不幸せが生まれないようにしたい。
そういったたぐいの行いだと、私は思っています。
リンク先の文章の前半は、「頭の良いちきりんは世間の価値観に迎合できなくて孤独だった。故に不幸せだった。」という一文を補強するために書かれたもので、無理なくすんなりと、その通りぽいなと思いました。
しかし、それ以降の結論全てが、私の思考と違うというのが面白かった。
不幸せだからといって、今更、世の中の馬鹿たちのように思考停止することもできない。
それは今までの自分の生き方、考え方を丸ごと否定することになる。ちきりんにできることは一つしかなかった。
それは、馬鹿な人間たちに啓蒙することで、多様な価値観を持ってもらい、「周りと同じでなくてもいい」という考えを全ての人間で共有することで「周りと同じ」になることだった。
だからちきりんは必死なのである。ブログも更新するし、twitterでも呟くし、本も書くのである。
しかし、残念ながらどんなに「自分の頭」で考えても人間は幸福にはなれない。
なぜなら、幸福とは「考える」ことで見出すものではなく、ただそこにあるものなのだから。それでも、ちきりんに出来るのは、「そもそも人生って幸福にならないといけないの?」って自分の頭で考えることだけなんだ。
私は孤独だったけれど、それはみんな同じで、むしろ孤独じゃない人はいなくて、それは「りんごが木から地面に落ちるかの如く当然であって、物理法則としてこの自然世界に確固として存在している事実だった」という事に気づいた瞬間に、びっくりするほど世界が広がって、その結果どうすれば幸せを「証明できるか」を見つけて、昨年暮れに幸せを証明できて、なるほどいい人生だったとなった人間です。
出来ることならば、ちきりんさんみたいな活動が少しでもできれば、それはこの先生きた意味の一つになるかなぁと思っています。
人は違うし、わからないから、なぜそう考えるのか?というその「なぜ」を知るのがとても面白い。
違うところを見つけては質問して知っていく、その活動が「仲良くなっていく」って事で、これには際限がなくて飽きないなぁと思うし、これが楽しい。
私は、他人には尊敬を持って接したいと思う世界観持っている人が好きで、その中でも、自分にとって理解できない行動をしている人には憧れます。
そんな人間が近くに複数いる今この時は、幸せで、それを深くしたり、欲をかくと「増やせる」ように生きていきたいと考えています。